ノートは保存より思考のためのもの|デジタル教科書・iPad学習に感じる違和感
デジタル教科書の導入や、iPadをノート代わりに使う学習スタイルが広がっています。世の中全体がデジタル化へ進んでいる以上、学習ツールも同じように変わっていくのは自然だ、という見方もあるでしょう。
私自身、デジタル化そのものを頭ごなしに否定したいわけではありません。導入したいなら導入すればよいですし、必要な場面で使うことまで止めるつもりもありません。ただ、少なくとも自分の授業では積極的に使いたいとは思いませんし、現状語られている利点にもあまり納得していません。
その理由は単純です。学習ツールに本当に必要なのは、多機能さや保存性ではなく、思考を邪魔しないことだと考えているからです。教科書にしてもノートにしても、学習の中心はその場で考えることにあります。ところが、デジタル化された道具は便利な機能を増やす一方で、読む、行き来する、雑に書く、素早く考えるといった基本動作を、むしろ不自由にしているように見えます。
特にノートについては、私は昔からかなりはっきりした考えを持っています。ノートは授業内容を書き留めるためのものではありません。その場で思考を整理するためのものです。この記事では、その前提から、教科書やノートをはじめとする学習ツールのデジタル化に感じている違和感を整理してみます。
ノートの本質は記録ではなく、その場で考えるための作業場
授業ノートについて、世の中ではしばしば「授業内容をきちんと記録するもの」と考えられているように思います。板書を書き写し、先生の説明をメモし、大事なところに線を引いて、後から見返して復習する。そのためにノートを丁寧に取るべきだ、という発想です。
しかし、私はこの考え方にあまり納得していません。
もし本当に授業内容を正確に書き留めて保存することが目的なら、手書きノートは効率が悪いです。書き漏らしもあれば、聞き逃しもありますし、板書の速度に追いつけないこともあります。そもそも書いている間は、理解より記録に意識が向きやすくなります。保存手段として見れば、ノートはかなり不完全です。
記録が目的なら、動画や録音の方がはるかに正確です。全部残りますし、後からそのまま確認できます。要点を漏らすこともありません。つまり、ノートの価値は「保存」にあるのではありません。
では何のためにノートを取るのか。私の考えでは、それは書きながら考えるためです。式を途中まで書く。図を雑に描く。思いついたことを脇にメモする。いったん書いて、違うと思ったら線で消す。こうした一連の作業を通じて、その場で理解を進める。そのための道具がノートです。
だからノートに求められるのは、きれいさでも完全さでもありません。必要なのは、速く、雑に、気軽に書けることです。
iPadノートやデジタルノートは本当に見返されるのか
iPadノートやデジタルノートの利点としてよく挙がるのは、「後から見返しやすい」「整理しやすい」「保存しやすい」といった点です。たしかに、保存物として見れば、それらはメリットなのかもしれません。
ただ、実際の学習でそこまでノートを見返しているかというと、かなり怪しいと思います。
多くの場合、ノートの価値は書いている瞬間にあります。書くことで理解し、書くことで整理し、書くことで自分の頭の中を動かしています。逆に言えば、それが済んだあとのノートは、そこまで重要ではないことが多いです。もちろん後で参照する場面がまったくないわけではありませんが、少なくとも主役ではありません。
しかも、本当に重要な内容なら、一度きりでは終わりません。大事なことは授業でも演習でも何度も出てきます。宿題でも出てきますし、テスト前にもまた触れます。だから、重要なことほど一回のノートで完璧に押さえなくても、いずれ何度でも出会います。
逆に、その一回しか出てこない情報なら、それは少なくとも学習の中核ではないはずです。だから「書き漏らしたら終わり」という発想自体が、学習の実態に合っていないように思います。
わからなくなったら、その都度聞けばよいのです。問題をもう一回やればよいですし、説明をもう一度受ければよいのです。理解はノートの保存性よりも、反復と対話の中で進むことの方が多いと感じます。
ノート提出に意味を感じにくい理由
こうした考え方からすると、学校でよくあるノート提出にも、私はほとんど意味を感じません。
ノートが本来、思考のための作業場であるなら、そこには個人ごとの癖や雑さがあって当然です。式の展開が途中で飛んでいてもよいですし、図が歪んでいてもよいですし、余白に変なメモがあってもよいのです。思考を進めるためなら、それで十分です。
ところが提出前提になると、ノートは急に「見せるもの」になります。きれいに書く。見栄えを整える。書き漏らしを埋める。あとから清書する。そうなると、ノートは思考の道具ではなく、評価される提出物へと変わってしまいます。
私はこれが嫌いです。ノートは本来、教師に見せるためのものではなく、自分の頭を動かすためのものです。提出を前提にした瞬間、その本質がずれてしまいます。
iPadをノート代わりに使うと、思考の速度に追いつきにくい
この考え方に立つと、iPadをノート代わりに使うことにもかなり批判的になります。実際、iPadでノートを取る学習スタイルは広がっていますが、思考の道具として本当に適しているのか、私は疑問を感じています。
理由はシンプルで、遅いからです。
紙とペンなら、置いた瞬間に書けます。ページをめくるのも一瞬ですし、余白がほしければそのあたりに書けば済みます。思いついたことを、その場でそのまま雑に残せます。頭の動きと手の動きがかなり直接につながっています。
一方でタブレットには、どうしても機器を介する感覚があります。反応のわずかな遅れ、書き味の違和感、誤タッチ、表示範囲の狭さ。細かく書こうとすれば見づらくなり、大きく書けばスペースが足りず、結局は拡大縮小が必要になります。画面を移動し、縮小して全体を見て、また拡大して書く。こうした操作が、思考の流れの中に割り込んできます。
一つひとつは小さな不便かもしれません。しかし、ノートはまさにその小さな動作の連続で成り立っています。だからこそ、その積み重ねが大きいのです。
ノートに必要なのは、きれいに残せることではありません。考えながら速く雑に書けることです。その点で、iPadノートは紙に大きく劣ると私は考えています。
デジタル学習ツールの多機能さは、かえって思考を妨げることがある
デジタルツールの長所として、多機能さがよく挙げられます。色を変えられる。消せる。拡大できる。移動できる。整理しやすい。検索しやすい。たしかに、機能だけ見れば便利に思えます。
しかし、学習では多機能さがそのまま利点になるとは限りません。むしろ、機能が多いほど余計なことを考えさせられます。
どの色にするか。どこに配置するか。きれいに書くか。整えるか。拡大するか。そのたびに、注意が内容ではなく道具の操作へ向かいます。そうなると、思考のためのエネルギーが削られていきます。
これは多機能ペンにも少し似ています。機能が増えれば便利になるようでいて、実際にはそれほど使いませんし、余計な構造がある分だけ道具としての純度が下がることもあります。学習道具に必要なのは、多機能であることより、抵抗が少ないことだと思います。
だから私は、普段の思考のためのノートなら、コピー用紙とボールペンだけで十分だと思っています。必要なことを書き、考え、終わったら次へ進む。そのくらいの簡素さの方が、むしろ学習には向いています。
デジタル教科書のメリットは、教科書そのものの強みとは限らない
教科書のデジタル化についても、似た違和感があります。
利点としてよく挙がるのは、拡大表示、読み上げ、音声、動画、書き込み、図の提示などでしょう。ですが、通常の授業を前提にすると、それらの多くは決定打には見えません。
拡大表示は、通常の学習ではそこまで必要ありません。読み上げも同様です。書き込みは紙の方がむしろしやすいです。音声や動画がほしいなら、今のQRコード運用でも十分だと思います。図も、静止画である限り紙と本質的な差はあまりありません。実験手順も紙に書けば済みますし、動きが必要なら別に動画を見せればよいのです。
つまり、挙げられている利点の多くは「デジタル教材」の利点ではあっても、デジタル教科書そのものの利点とは限りません。教科書本体をデジタルにしなければ実現できない価値が、そこまで見えてこないのです。
もちろん、特別な配慮が必要な子どもに対して、拡大や読み上げが役立つ場面はあるでしょう。そこは否定しません。ただ、それは必要な子に必要な配慮をすればよい話であって、全員の標準形を変える決定的な理由になるとは思いません。
紙の教科書が優れているのは「読めること」より「使いやすさ」
紙の教科書の強みは、情報そのものよりも、使いやすさにあります。
パラパラめくれる。前後を一瞬で行き来できる。全体感がつかみやすい。「あのへんに載っていた」という探し方ができる。複数ページを見比べやすい。こうした性質は、教科書のように頻繁に参照し、行き来し、ざっくり探しながら使う道具にとって非常に大きいです。
デジタルは検索できる、とよく言われます。ですが検索は、探したい言葉がはっきりしているときには強い一方で、なんとなく前後をたどるような探索には弱いです。見出しや用語が正確にわからなければ探しづらいですし、一覧性も高くありません。結局、「なんとなくあのへんにあった」を支えるアナログ的な検索力では、紙の方が優れているように思います。
これは攻略本ですらそうでした。デジタル化されると便利そうに見えますが、実際にはパラパラできないことが思った以上に不便で、前後の往復もしづらいのです。学習ツールならなおさらでしょう。
学習ツールに本当に必要なのは、機能の多さではなく思考を止めないこと
ここまでの話をまとめると、私が学習ツールのデジタル化に違和感を持つ理由はかなり単純です。
デジタル化で語られる利点の多くは、既存手段で代替できます。
その一方で、紙の教科書や紙のノートが持っている、
- 行き来のしやすさ
- ざっくり探せること
- 速く雑に書けること
- 思考をそのまま受け止められること
といった基本性能は、デジタルになることで損なわれやすいです。
学習にとって大事なのは、機能の多さではありません。保存性でもありません。見た目の整い方でもありません。大事なのは、考えることを邪魔しないことです。
まとめ
私はデジタル化そのものに反対したいわけではありません。必要な場面で使えばよいですし、向いている用途もあるでしょう。ただ、少なくとも学習の中核にある教科書やノートについては、紙の方がはるかに合理的だと思っています。
ノートは保存ではなく、思考のためのものです。
そして教科書もまた、機能を盛り込むための装置ではなく、学ぶために日常的に使う道具です。
その原点に立ち返って考えるなら、学習ツールのデジタル化は、少なくとも今よく言われているほど自明に「進歩」ではありません。むしろ、学習の本質から見れば、余計なものを増やしているだけではないか。そんな違和感を、私は拭えずにいます。