地頭が悪いとして、だから何だ。才能論に抗う。
地頭が悪い。
その評価が正しいかどうかを、ここで論じるつもりはありません。仮に正しいとしましょう。あなたの地頭は悪い。生まれ持ったものが、人より少ない。
だから何だ、と思うのです。
それは、やめる理由になるのでしょうか。
私はかつて、あるゲームでトッププレイヤーに指導を受けたことがあります。とても有意義な時間でした。自分の何が足りないのか、上手い人間には何が見えているのか、その一端に触れられた気がしました。
ただ、私はその人のプレイ時間を見て、言葉を失いました。
10000時間を超えていたのです。私は2000時間でした。
才能がどうという話の、はるか手前の問題でした。そもそも同じ土俵に立っていない。投入した時間が違いすぎる。熱量が違いすぎる。私がいかに尽くしていなかったか、ただそれだけでした。
結局、私はそのゲームをやめました。才能がなかったからではありません。そこまでの熱が、自分になかったからです。
才能というものは、あるのでしょう。生まれ持った差は、確かに存在する。
問題は、その先です。
「才能の差で負けた」と言えるほど私たちは本当に尽くしているのでしょうか。
たとえば難関の中高一貫校に受かるような子どもたち。彼らは天才なのかもしれません。けれど、それを判断する手前で、もっとはっきりした事実があります。彼らは小学生のうちに、すさまじい時間を勉強に投入しているのです。私たちが公園で遊んでいたあいだに、彼らは机に向かっていました。私たちが漫然と過ごした時間を、彼らは積み上げていたのです。
才能があるかどうか、私には測れません。けれど、投入した熱が違いすぎることだけは、はっきりわかります。
だとすれば、「才能の差で埋まらない」などと、どうして言えるのでしょう。その差を見極められるところまで、まだ近づいてもいないのに。
ここで問いたいのです。
才能の差を論じるほどに、あなたは尽くしたのでしょうか。
やれることをやり切って、それでもなお届かなかったその場所に、本当に立っているのでしょうか。
そして、明日の自分は、今日の自分より劣るというのでしょうか。
私はゲームをやめました。熱がなかったからです。それでいいと思っています。
結局、それだけのことなのです。
熱があるなら、やる。ないなら、やめる。才能は関係ありません。
「地頭が悪い」は、やるかやめるかとは何の関係もない言葉です。地頭が悪くても、熱があるならやればいい。地頭が良くても、熱がないならやめればいい。
問うべきは、才能ではありません。熱があるかどうか、ただそれだけです。
あきらめるのは、やれる限りを尽くしてからでも、遅くはありません。
私はまだ抗いたいと思います。